7月, 2010 | CHOCOLATINO ラテンの風
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7月, 2010:

南米のバーベキュー

今夜は飲もう!!という時、南米ではアサドというバーベキューで盛り上がります。だいたい21時くらいに適当に集合。で、コンロをセッティング、火をおこし、炭をつくり、火力をあげ、網をきれいにして、網が熱くなったら肉を投入して、もちろんお酒をのみつつ、酒がなくなり買いに走り、

・・・・・・・・・・・(中略)・・・・・・・・・・・・

肉に焦げ目がつく頃には日にちが変わっています。それまでさんざん飲んで出来上がっているので、やっと焼けた♪とテンションが上がるチームと、待ちすぎて酔いのピークが過ぎグッタリしているチームに分かれます。グッタリチームは口数少ないものの美味しそうに黙々と食べて、パワーを取り戻し復活してきます!

肉以外にチョリソーをパンで挟んで食べるチョリパンという食べ物があります。溢れる肉汁をカリッとしたパンが両脇で旨味を見事にキャッチ、そのまま頂きます。日本のウインナー文化に慣れてしまったCHOCOLATINOにはチョリソーのパリっとした食感と肉汁にただ感動するばかり。その土地のワインやビールがあれば完ペキです。食べ終わってからもまだまだ宴は続き、街に繰り出したりします。

宴はだいたい予定通りに進むことはまずないのでなりゆきにまかせるしかありません。そもそも予定なんてナイです。今晩は家に帰れるのかな・・という時も結局はなんとかなります。キッチリしている人がいる時はもっと手際良く進んできますが、その辺はいつもなりゆきですね。

辺境の土地で経験したアサドは羊一頭丸焼きでした。CHOCOLATINOはかつてチリ南部のパタゴニアに滞在し、ある仕事のお手伝いをしていたことがあったのですが、街からバスで8時間、人口は数十人で周辺は羊が数千頭、プーマがいて、コンドルが上空を旋回しているような場所でした。ココん家は羊一頭丸焼き(両手両足を開いてぶらさがっています・・)。目の前にぶら下がった羊センパイの命を頂き美味しく食べることで、自分が生き延びることができるのだな、と謙虚なキモチになり羊センパイに感謝したものです。

アサドはその土地や家族ごとに微妙なスタイルが出てきて奥深いです。

肉がデカすぎて恐かったらしい。。。

忘れられない家族

ヒッチハイクしていると様々な出会いがありました。忘れられない人達のなかにナオミファミリーがいます。

当時、彼らもこの町に住んでいて、車に乗せてくれたのが縁で仲良くなりました。家族は4人(お父さん、お母さん、女の子、お婆ちゃん)なので、彼らの旧式の小さな乗用車では少し窮屈に見えました。最初に出会った時も4人乗っていたので、そこにサーフボードとCHOCOLATINOをパズルのように斜めに車内に押し込むと乗車率???%に・・・・恐縮しまくりでした。でも、彼らにとってはこの親切が当然の振る舞いで、とても自然だったのが印象に残っています。

このヒッチハイクが縁で食事に招かれ、彼らの家を訪ねるようになりました。彼らからチリの事やスペイン語を学び、彼らには日本のコトを教えました。それからも道端で会う時はいつも、車で通り過ぎても気づくとわざわざバックして戻ってきて声を掛けてくれました。ある時は、一度サヨナラを言って別れた後に、凄い勢いで追いかけてきたと思ったら、「お腹が空くから!」とサンドイッチと飲み物を持たせてくれるなど、いつも気にかけてくれていました。

その後、この町を去ってからしばらく南米各国を旅することになりますが、いつもナオミファミリーの心意気を覚えていました。現在、彼らはどこか別の町に引っ越してしまったようなので、もう会う機会はないと思います。直接会ってお礼は言えないけど、これから出会う人達には、かつて彼らがそうであったように大きなキモチ出し切っていきたい、そう心に誓った若かりし頃のCHOCOLATINOなのでした。

ヒッチハイク

サーフィンのおかげで仲間が増え、みんながチリの事、南米の波の事などイロイロと教えてくれるので、世界が少しずつ広がってきました。そして、この町の郊外にも良いサーフスポットがあるんだぜ、との事!コレはいかないわけにはいきません。そこで問題は交通手段でした。

タクシー ・・・・・高い、一日の生活費に匹敵。
路線バス ・・・・・時間があてにならない。本数少ない。
徒歩 ・・・・・・・3時間。。。
ヒッチハイク。。。。

お金に余裕のある外国人達はタクシーを使っていましたが高過ぎ、バスも分かりにくく、CHOCOLATINOは地元サーファーにならいヒッチハイクで通っていました。海へと向かう道端でサーフボードを抱え親指をたてて車が来るのを待ちます。待っていても来ない時は歩きながら。荷台つきのトラックは結構な確率で止まってくれました。わざわざ止まってくれるドライバーはみんな神様のように輝いてみえました!

昔の道路はオフロードで、トラックの荷台だと揺れが激しくお尻が痛くなります。それでも、風に吹かれながら眼前に遠ざかっていく海沿いの風景に見とれていると穏やかな気持ちになり、時間が経つのがとても短く感じられました。仲間と相乗りする時も、なぜかみんな静かに海を眺めていました。

帰り道は交通量が激減、一方で海上がりの人が多くなりヒッチハイクも競争が激しくなります。先に車を見つけた仲間が車に飛び乗り定員オーバーになると、「先に帰るゼー♪」と得意げにノリノリで帰宅してくのを見ると、コチラも早く帰りたくなりアセってくるものです。日が沈み暗くなると車が来ないので、宿に向かって歩いていたら着いちゃった、ということも度々ありました。

予定通りにいかない効率の悪いヒッチハイクですが、ドライバーの心意気に触れ、いろいろな人達と出会うキッカケになるし、単なる移動手段以上のワクワク感がありました。

ピトに出会った

(前回のつづきです。。)
彼らはその後、周辺の新しいサーフスポットを次々に開拓していくのでした。そうした過程の中でなんとかサーフィンを続ける方法を模索していたようで、サーフショップを始めたり、大会の運営を手がけたりする人も出てきました。また、当時高校生で将来はプロとして生きていくと語っていたラモンは本当に!実現させ、今や世界的なプロサーファーになっています。ラモンは今年のハワイのワイメアで行われたエディ・アイカウという世界のトップサーファーだけが招待されるビッグウェイブの大会で好成績を残す等、すっかり遠い存在になってしまいました。プロサーファーという職業が存在しないときから高い目標に向かって努力を続けていた素晴らしい成果です。
そして、その地元サーファーの中にいた一人がクリスチャン・ピトでした。彼も古い板をずっと大事に使いながら毎日サーフィンに明け暮れていました。いつも良い波を選び、波の難しい所をカッコ良く乗り、とにかく熱心に海に入っていました。その甲斐もあり、今ではチューブライダーとしてみんなに一目置かれています。当時から絵を描いているのは知っていたものの、会うとひたすら波乗りや飲んだりして過ごしていただけなので、この時は将来、一緒に仕事をすることなんてCHOCOLATINOは考えも期待もしていませんでした。
ピトはその後ももちろん波乗りを続けていて(というかどっぷりハマり・・)、より海に近い場所(すぐ目の前!)で暮らし始めたことで彼の感性に磨きがかかっているようです。最近では町全体の標識を彼が手がけるようになりました。「海岸まで〜キロ」というのがサボテンの看板だったりするので、街を歩いているだけでワクワクしてきます。さらにサーフィン大会のトロフィーやコンテストの運営など、ピトの仕事はさまざまな分野に広がっています。